Chin of Wa
Book of Song | Book of Liang | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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Genealogy of Emperors in Nihon Shoki
(Numbers in parentheses are Japanese epithets) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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Chin' or Wa Chin (倭珍, date of birth and death unknown) was a king of Wa in the early 5th century (middle Kofun era}}. He was also known as Wa Ochin' (倭王珍) [1].
San's younger brother and one of the Wa'. Some compare him to the 18th Emperor Hanzei.
記録[edit]
宋書[edit]
- 『宋書』列伝
- Wazui
- 夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の讃の死後に珍が王に立ち、宋に遣使貢献し「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称して上表文を奉り除正を求めたところ、文帝は「安東将軍 倭国王」とするよう詔したとする[2][3]。
- また、珍が倭隋ら13人に対する平西・征虜・冠軍・輔国将軍号の除正も求めたところ、文帝は詔して全て認めたとする[2][3]。
- 『宋書』本紀
- 文帝紀 元嘉7年(430年)正月是月条では、倭国王が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする(讃または珍の遣使か)。
- また文帝紀 元嘉15年(438年)己巳条では、倭国王の珍を「安東将軍」となしたとする[2]。
- さらに文帝紀 元嘉15年(438年)是歳条では、武都王・河南国・高麗国・倭国・扶南国・林邑国が遣使して方物を献上したとする。
Book of Liang[edit]
- The Biography of Liang
- In the Biographies of Liang, the article on Japan states that after the death of the Japanese king "Zan", his younger brother "Ya" stood up, and after his death, his son "Je" stood up.[4]。
History of the Southern Dynasties[edit]
In the Nan shi, the article on the Japanese Kingdom (Nan shi wagu den) describes the contents of the Song Shu Chronicles.
Year | Goguryeo | Baekje | Wa |
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317 | Eastern Jin | ||
372 | Geunchogo of Baekje | ||
386 | Jinsa of Baekje | ||
413 | Jangsu of Goguryeo | ||
416 | Jangsu of Goguryeo | Jeonji of Baekje | |
420 | Liu Song dynasty | ||
Jeonji of Baekje | |||
421 | San of Wa | ||
438 | Chin of Wa | ||
443 | Sei of Wa | ||
451 | Sei of Wa | ||
457 | Gaero of Baekje | ||
462 | Ko of Wa | ||
463 | Jangsu of Goguryeo | ||
478 | Bu of Wa | ||
479 | Southern Qi | ||
Bu of Wa | |||
480 | Jangsu of Goguryeo | Moudu (牟都) | |
490 | Dongseong of Baekje | ||
494 | Munjamyeong of Goguryeo | ||
502 | Liang dynasty | ||
Munjamyeong of Goguryeo | Dongseong of Baekje | Bu of Wa |
考証[edit]
- 「珍」・「彌」・「禰」について
- 『宋書』の「珍」は、通説では『梁書』の「彌」と同一人物とされる。これは、「珎(珍の俗字)」と「弥(彌の俗字)」に混同が生じやすいため、『梁書』の方で誤写が生じたものと解される[6][7]。
- Dei of Wa
- 一方、「珍」と「彌」とは別人と見て、実際には「倭の六王」とする説もある[6][7]。そのほか武の上表文に「祖禰」と見えることから、武の祖父に「禰」を想定して、これと珍を同一視する説もある[8][9]。ただし一般には、その「禰」は単に廟の意と解されて、「祖禰」は先祖の意と訳される[10]。
- 使持節 都督について
- 珍は遣使で「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事」を自称しているが、自称であるため、前王の讃の時点では任官されていなかったと見られる[11]。実際に倭がこれらの国々に軍事的影響力を持ったとは疑わしく(慕韓は百済の影響下、新羅・秦韓は高句麗の影響下にあった)、高句麗が要求の必要性を感じていなかった隙を突いた様子が示唆される[11]。
- 430年記事について
- 『宋書』文帝紀の元嘉7年(430年)記事では、遣使主体は「倭国王」とのみ記され、名前を明らかとしない。これに関して、新王の遣使ならば冊封を受けるのが通例などとして主体を讃とする説が有力であるが[6][7][2]、主体を珍とする説もある[6]。
- 倭隋らの任官について
- 『宋書』倭国伝では、珍の任官の際に倭隋ら13人も将軍号の任官を受けたと見える。この倭隋の詳細は明らかでないが、倭王と共通する「倭」姓であるため、ヤマト王権内では王族将軍が支持基盤であったことが示唆される[6][7]。ただし平西将軍は安東将軍と同じ第三品で、品内でも1階しか違わないことから、当時の倭では王と同程度の人物が補佐する統治構造であったとする説[12]、その様子と百舌鳥古墳群・古市古墳群の並立との対応をみる説もある[11]。なお、高句麗王・百済王・倭王の場合は「征東・鎮東・安東」など中国の視点の将軍号であるが、倭隋の場合は「平西」という倭の視点の将軍号になる点が注意される[12]。
- 朝鮮への侵攻について
- 『三国史記』では440年・444年に倭が新羅に侵攻したと見えるほか、『日本書紀』の修正紀年でも442年に倭が新羅を討ったとするため、実際に440年代初頭に倭(珍か)が軍事行動を起こしたとする説がある[11]。
- 天皇系譜への比定
- 『日本書紀』・『古事記』の天皇系譜への比定としては、珍を反正天皇(第18代)とする説などが挙げられている[13]。この説は、「武 = 雄略天皇」が有力視されることから、武以前の系譜と天皇系譜とを比較することに基づくが、『宋書』では珍と済の関係が不明で一意に定まらないため、定説はない[14][8]。反正天皇説では、和風諡号の「瑞」と「珍」の意通が指摘される[14]。
- なお、記紀の伝える天皇の和風諡号として反正天皇までは「○○ワケ」であるのに対し、允恭天皇・安康天皇・雄略天皇に「ワケ」は付かないことなどから、允恭天皇以後の王統(済以後の王統)の変質を指摘する説がある[15]。
- 墓の比定
- 倭の五王の活動時期において、大王墓は百舌鳥古墳群・古市古墳群(大阪府堺市・羽曳野市・藤井寺市)で営造されているため、珍の墓もそのいずれかの古墳と推測される[16]。これらの古墳は現在では宮内庁により陵墓に治定されているため、考古資料に乏しく年代を詳らかにしないが、一説に珍の墓は大仙陵古墳(現在の仁徳天皇陵)に比定される[8]。
脚注[edit]
- ↑ 倭王珍(日本人名大辞典).
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 『東アジア民族史 1 正史東夷伝(東洋文庫264)』 平凡社、1974年、pp. 309-313。
- ↑ 3.0 3.1 『倭国伝 中国正史に描かれた日本(講談社学術文庫2010)』 講談社、2010年、pp. 117-123。
- ↑ 『東アジア民族史 1 正史東夷伝(東洋文庫264)』 平凡社、1974年、pp. 315-319。
- ↑ Mori, Kimiyuki; 森公章 (2010). Wa no Goō : 5-seiki no Higashi Ajia to Waō gunzō (1-han ed.). Tōkyō: Yamakawa Shuppansha. ISBN 978-4-634-54802-2. OCLC 609537044. Search this book on
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 倭の五王(国史).
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 倭の五王(日本大百科全書).
- ↑ 8.0 8.1 8.2 足立倫行 「「倭の五王」をめぐる論点」『ここまでわかった! 「古代」謎の4世紀(新人物文庫315)』 『歴史読本』編集部編、KADOKAWA、2014年、pp. 48-61。
- ↑ 上田正昭 『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか-縄文から倭の五王まで(新潮選書)』 新潮社、2012年、pp. 226-231。
- ↑ 森公章 2010, pp. 1-6.
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 河内春人 2018, pp. 73-119.
- ↑ 12.0 12.1 森公章 2010, pp. 47-50.
- ↑ 珍(古代氏族) 2010.
- ↑ 14.0 14.1 森公章 2010, pp. 25-46.
- ↑ 森公章 「稲荷山鉄剣銘の衝撃 金石文・中国史書と記紀からみた四・五世紀」『発見・検証 日本の古代II 騎馬文化と古代のイノベーション』 KADOKAWA、2016年、pp. 70-84。
- ↑ 「ワ」の物語(百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議「百舌鳥・古市古墳群」)
参考文献[edit]
- 事典類
- "倭王珍". 日本人名大辞典 (in 日本語). 講談社. Search this book on
- 坂元義種. "倭の五王". 国史大辞典 (in 日本語). 吉川弘文館. Search this book on
- 日本大百科全書(ニッポニカ) (in 日本語). 小学館. Search this book on
- 坂元義種 「倭の五王」、「珍」。
- 坂元義種 (2006). "倭の五王". 日本古代史大辞典 (in 日本語). 大和書房. ISBN 978-4479840657. Search this book on
- "珍". 日本古代氏族人名辞典 普及版 (in 日本語). 吉川弘文館. 2010. ISBN 978-4642014588. Search this book on
- 関和彦. "倭王珍". 朝日日本歴史人物事典 (in 日本語). 朝日新聞出版. Search this book on - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
- その他文献
- 森公章 (2010). 倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像(日本史リブレット 人 002) (in 日本語). 山川出版社. ISBN 978-4634548022. Search this book on
- 河内春人 (2018). 倭の五王 -王位継承と五世紀の東アジア-(中公新書2470) (in 日本語). 中央公論新社. ISBN 978-4121024701. Search this book on
関連項目[edit]
外部リンク[edit]
- 漢籍電子文献資料庫 - 台湾中央研究院
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