Sai of Wa
| Book of Song | Book of Liang | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| Genealogy of Emperors in Nihon Shoki
(Numbers in parentheses are Japanese epithets) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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済(せい)または倭 済(わ せい、生没年不詳)は、5世紀中頃(古墳時代中期)の倭王[1]。「倭王済」とも[1]。
興・武の父で、「倭の五王」の1人。第19代允恭天皇に比定する説が有力視される。
記録
宋書
- 『宋書』列伝
- 夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、元嘉20年(443年)に「倭国王」の済は宋に遣使奉献し、珍と同様に「安東将軍 倭国王」に任じられたとする[2][3]。
- また元嘉28年(451年)には、済の爵号に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加えられ、「安東将軍」は元のままとされた。さらに済がすすめた23人は軍(将軍または軍号の意か)・郡(太守)に任じられた。その後、済が死に世子の興が遣使貢献したとする[2][3]。
- 倭王武の上表文には、済が高句麗を討とうとしたが、その直前に亡くなったと記されている[lower-alpha 1]。
- 『宋書』本紀
- 文帝紀 元嘉20年(443年)是歳条では、河西国・高麗国・百済国・倭国が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする。
- また文帝紀 元嘉28年(451年)7月甲辰条では、「安東将軍 倭王」の倭済が「安東大将軍」に進号されたとする(倭国伝の進号記事と将軍号は異同)[2]。
- さらに孝武帝紀 大明4年(460年)12月丁未条では、倭国が遣使して方物を献上したとする(済または興の遣使か)。
Book of Liang
- The Biography of Liang
- In the Biography of Liang Shu, the article on "Yamato" (梁書倭伝) states that his son Je stood up after the death of "Ya", and his son Xing stood up after his death.[4]。
南史
『南史』夷貊伝 倭国の条(南史倭国伝)では、『宋書』列伝の内容が記述されている。
| Year | Goguryeo | Baekje | Wa |
|---|---|---|---|
| 317 | Eastern Jin | ||
| 372 | Geunchogo of Baekje | ||
| 386 | Jinsa of Baekje | ||
| 413 | Jangsu of Goguryeo | ||
| 416 | Jangsu of Goguryeo | Jeonji of Baekje | |
| 420 | Liu Song dynasty | ||
| Jeonji of Baekje | |||
| 421 | San of Wa | ||
| 438 | Chin of Wa | ||
| 443 | Sei of Wa | ||
| 451 | Sei of Wa | ||
| 457 | Gaero of Baekje | ||
| 462 | Ko of Wa | ||
| 463 | Jangsu of Goguryeo | ||
| 478 | Bu of Wa | ||
| 479 | Southern Qi | ||
| Bu of Wa | |||
| 480 | Jangsu of Goguryeo | Moudu (牟都) | |
| 490 | Dongseong of Baekje | ||
| 494 | Munjamyeong of Goguryeo | ||
| 502 | Liang dynasty | ||
| Munjamyeong of Goguryeo | Dongseong of Baekje | Bu of Wa | |
考証
On the continuity between Je and Chin
In the article in the Sung Shu, Je takes the surname "Wa" (倭) as did the previous Japanese king Jin, but does not clarify his relationship to Jin. Since they do not name the continuation, there is a theory that Je and Chin were not close blood relatives, and since the Nihon Shoki shows a struggle in the succession to the throne after Emperor Nintoku, the possibility of the existence of such a struggle over the throne is pointed out [6] In addition, since the Wazui can be seen as a particularly powerful royal family in the Chin period, there is a theory that there were two royal forces at that time (Mozu Kofun Cluster and Furuichi Kofun Cluster), and that Je may have been a lineage of this Wazui [6]。
460年記事について
『宋書』孝武帝紀の大明4年(460年)記事では、倭国の遣使を伝えるが、遣使主体の名前を明らかとしない。これに関して、新王の遣使ならば冊封を受けるのが通例として主体を済とする説がある一方[7][8]、『宋書』倭国伝の興の遣使記事との対応を見る説もある[2]。
朝鮮への侵攻について
『三国史記』では440年・444年に倭が新羅に侵攻したと見えるほか、『日本書紀』の修正紀年でも442年に倭が新羅を討ったとするため、実際に440年代初頭に倭が軍事行動を起こしたとする説がある[6]。配下への叙任が443年から下る451年になって実施されているため、これを軍事行動の論功行賞とも、この頃にようやく済が王位を固めたとも推測される[6]。
天皇系譜への比定
『日本書紀』・『古事記』の天皇系譜への比定としては、済を允恭天皇(第19代)とする説が有力視される[1]。この説は、「武 = 雄略天皇」が有力視されることから、武以前の系譜と天皇系譜とを比較することに基づく[9][10]。記紀では允恭天皇・安康天皇が相次いで死去する伝承が記されており、武の上表文に「奄喪父兄(にわかに父兄を失う)」と見える記述はこれとも対応する[9]。ただし系譜以外の論証が確かでないことから、音韻・系譜の使い分けによる恣意的な比定を批判する説もある[11]。
なお、記紀の伝える天皇の和風諡号として反正天皇までは「○○ワケ」であるのに対し、允恭天皇・安康天皇・雄略天皇に「ワケ」は付かないことなどから、允恭天皇以後の王統(済以後の王統)の変質を指摘する説がある[12]。
Comparison of the tombs
During the period of activity of the Five Kings of Japan, the tombs of the great kings were constructed in the Mozu Tombs and Furuichi Kofun Cluster (Osaka Prefecture, Sakai City, Habikino City, Fujiidera), and Je's tomb is assumed to be one of them[13]. These tombs are now designated as mausoleums by the Miyouchi Agency, so there is a lack of archaeological data to date them, but one theory compares them to the Ichinoyama tomb (the current imperial tomb of Emperor Yunkyo).
Another archaeological source is the "Gift of Wang" excavated from the Inaridai No. 1 Kofun (Ichihara City, Chiba Prefecture). (or Chin), since he is self-explanatory only by writing "Wang" [14][15]. It should be noted, however, that the iron sword from Inariyama burial mound inscription and the iron sword from Etafuneyama burial mound inscription are distinct from the "Great King" of the Inariyama Sword[6]。
済の爵号について
『宋書』には、済の爵号が「安東将軍」とする記録と「安東大将軍」とする異なる記録があり、議論がある。『宋書』夷蛮伝・倭国条は、済は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に封じられ、元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加号されたが、「安東将軍」は元のままとされた。一方、『宋書』本紀は、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している[16]。また、『冊府元亀』巻九六三・外臣部・封冊一も「(宋・文帝元嘉)二十八年七月,安東将軍倭王済,進号安東大将軍」と記述しており、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している[17]。
済の爵号が「安東将軍」、もしくは「安東大将軍」について、3つの解釈に大別される。
- 夷蛮伝・倭国条が正しく、本紀が誤りであり、爵号は「安東将軍」の元のままであるとする説(支持者:池内宏[18]、宮崎市定[18]、西嶋定生[18])
- 本紀が正しく、夷蛮伝・倭国条が誤りであり、爵号は「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたとする説(支持者:高寛敏[18]、田中俊明[18])
- 夷蛮伝・倭国条と本紀の両方とも正しく、時間差を考慮して、まず「安東将軍」が授与され、まもなく「安東大将軍」に進号されたとする説(支持者:坂元義種[18]、吉村武彦[19]、荊木美行[19])
現在の日本では、2.もしくは3.が通説である[19]。一方、韓国では、高句麗王が「征東大将軍」、百済王が「鎮東大将軍」を得たのに対し、倭王が「安東将軍」止まりであるならば、国際的地位に大きな見解の差が生じ、高句麗王と百済王が上位、倭王が下位という優劣の序列とも解釈できるため、1.の主張がみられる[20]。
朴鍾大は、以下のように主張している[21]。
済は宋朝から安東将軍・倭国王として冊封を受けた後、元嘉28年には「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」として冊封された。同書(『宋書』)本紀には安東大将軍として追封されたことを記録しているが、錯誤だというのが通説である。…中国南朝が高句麗・百済・倭に冊封した爵号の序列面においても劉宋朝の場合は、高句麗は最初から征東将軍として冊封され、征東大将軍・車騎大将軍・驃驤大将軍の順序で進封されており、百済は最初鎮東将軍に冊封されたが、鎮東大将軍に進封された。倭は最初からずっと低い序列の安東将軍として冊封されただけである。同じ時期の冊封が百済は鎮東大将軍であり、倭は序列が低い安東将軍に過ぎないにも拘わらず、百済を包含する韓半島南部を軍事的に支配したというのは論理的に成立しえない主張である。 — 朴鍾大, 倭の五王の上表文と韓日古代史の問題点
延敏洙は、以下のように主張している[22]
ところで、済に除授された爵号が安東大将軍なのであれば、済の死後、王位を継いだ興が大明6年に除授された爵号が安東将軍であるため、前任の王よりも下位の爵号を除授されたことになる。これは中国の王朝の授爵慣例から見て、考えにくいことである。後任の王に特別な欠格事由がない限り、前任の王の爵号と同等、ないしは上位の爵号を除授するのが常例であるためである。列伝に記録されている世祖孝文帝の条によると、「倭王の後嗣である興は、累代の倭王の忠誠を受け継ぎ、外海に宋室の蕃屏をなし、天子の徳化を受けて境域を平安にし、このように丁重に朝貢してきた。今、新たに辺土を守護しているため、爵号を除授し、安東将軍・倭国王とせよ」と称頌の表現を駆使しているように、前任の王よりも下位の爵号が下される事由は見いだせない。この記事を否定しない限り、元嘉28年の倭国王済の安東大将軍説は採りにくい。…このように見ると、倭の五王の時代の倭王たちが、宋朝から除授された将軍号は安東将軍が最高の官品だったといってもよいだろう。倭国王の国際的な地位が、始終、高句麗・百済王よりも下位に置かれていたことは、宋朝側の国際認識であり、現実的な外交路線を反映しているものと考えられる。 — 延敏洙, 倭の五王時代の対外関係
石井正敏は、夷蛮伝・倭国条は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に冊封された済が、元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されたことを、「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事。安東将軍如故。」と記しているが、その記事に済が元嘉20年に得た爵号「倭国王」が記されていないことを指摘しており、夷蛮伝・倭国条の済の任官記事「安東将軍故ノ如シ」に着目している[20]。すなわち、「(官爵号)如故(もとノごとシ)」という表現は、同じ夷蛮伝の中における高句麗王および百済王が進号・加号された場合、以前得た爵号を継承する場合、「王」号も必ず「如故」と記している[23]。一方、済の場合、「安東将軍」のみが「如故」とされ、「倭国王」は欠落しており[24]、本来は「如故」称号に「(倭国)王」が含まれていなければならないが、同じ夷蛮伝の中における高句麗王・百済王と比べて表現方法に不可解な相違がある[25]。もう一つ、夷蛮伝・倭国条の元嘉28年条の記事で注目されるのは、ほかならぬ「安東将軍如故」とあることである。『宋書』夷蛮伝や氐胡伝をみると、「如故」とする場合は、爵号のフルネームを記さず、略称を用いるのが一般的であり、高句麗王の場合、「使持節→持節」「散騎常侍→常侍」「都督営州諸軍事→都督」「高句麗王→王」「楽浪公→公」と略称が用いられている[25]。氐胡伝における楊文度の場合(元徽4年)、 (前官)
寧朔将軍・略陽太守・武都王
(新除)
加督北秦州諸軍事・平羌校尉・北秦州刺史,将軍如故。
この「将軍如故」の将軍は「寧朔将軍」を指しており、やはり「如故」とする場合は、爵号のフルネームを記さず、略称が用いられている[25]。また済が元嘉28年に除正を求めた記事には、「并除所上二十三人軍,郡。」と記すが、この記事の「除…軍,郡」は将軍号・郡太守号の略称である[25][26][26]。これらの例から、「○○将軍」号が「如故」とされる場合は、「○○将軍如故」ではなく、「将軍如故」もしくは「軍如故」と具体名は省略されるのが一般的であるとみなされる。すなわち、問題とする済の場合、元来略称が用いられるべきところに、わざわざ「安東将軍如故」とフルネームが使われていることに、却って問題を感じるのであり、少なくとも夷蛮伝において異例の表現であることは明らかである[27]。
石井正敏は、本紀は、安東大将軍に進号した月日や「安東将軍」から「安東大将軍」に進号する、とまで具体的に記しているため、済の爵号が「安東大将軍」とする本紀の記録は信頼性があるという常識的理解のうえで、夷蛮伝・倭国条の表記の異例に注目すると、倭国条元嘉28年条の原文における誤脱を指摘しており、元来「二十八年,加使持節,都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,進号安東大將軍。王如故。」と記すべきものが、誤脱が生じた結果「二十八年,加使持節,都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。」と伝わった可能性を指摘している。石井正敏は、「もちろん史料原文の誤脱を安易に主張することは厳に慎まなければならないことを十分に認識している。しかしそれでもなお、この部分については誤脱を想定するに十分な理由があるように思われる」として、夷蛮伝は早くに散逸し、遠く10世紀の趙匡胤の宋代に補われた可能性を指摘しており、元嘉28年に済が得た爵号は本紀の通り「安東大将軍」であり、高句麗王(「征東大将軍」)および百済王(「鎮東大将軍」)と倭王に上下優劣の序列があるという主張には従えないと批判している[27]。
脚注
注釈
- ↑ 句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 倭王済(日本人名大辞典).
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 井上秀雄 (1974-12-01). 東アジア民族史 1-正史東夷伝. 東洋文庫264. 平凡社. pp. 309–313. ISBN 4582802648. Search this book on
Cite error: Invalid <ref>tag; name "東洋文庫 宋書" defined multiple times with different content - ↑ 3.0 3.1 藤堂明保; 竹田晃; 影山輝國 (2010-09-13). 倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本. 講談社学術文庫. 講談社. pp. 117–123. ISBN 978-4062920100. Search this book on
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- ↑ 森公章 「稲荷山鉄剣銘の衝撃 金石文・中国史書と記紀からみた四・五世紀」『発見・検証 日本の古代II 騎馬文化と古代のイノベーション』 KADOKAWA、2016年、pp. 70-84。
- ↑ "Wa" no Monogatari (Headquarters Committee for the Promotion of the Mozu and Furuichi Tumulus Group World Cultural Heritage Registration, "Mozu and Furuichi Tumulus Group")
- ↑ Mori Kosho 2010, pp. 51-55.
- ↑ Kouchi Haruhito 2018, pp. 73-119.
- ↑ (元嘉二十年)是歲,河西國,高麗國,百濟國,倭國並遣使獻方物。…(二十八年)秋七月甲辰,安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍。 — 宋書、巻五interlanguagelink
- ↑ 二十八年七月安東將軍倭王濟進號安東大将軍 — 冊府元亀、巻九六三
- ↑ 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 18.5 石井 2005
- ↑ 19.0 19.1 19.2 石井 2005
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- ↑ take reference from JApanese this was compltely lost
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- ↑ 25.0 25.1 25.2 25.3 石井 2005
- ↑ 26.0 26.1 Cite error: Invalid
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参考文献
- 事典類
- "倭王済". 日本人名大辞典. 講談社. Search this book on

- 坂元義種. "倭の五王". 国史大辞典. 吉川弘文館. Search this book on

- 日本大百科全書(ニッポニカ). 小学館. Search this book on
- 坂元義種 「倭の五王」、「済」。
- 坂元義種 (2006). "倭の五王". 日本古代史大辞典. 大和書房. ISBN 978-4479840657. Search this book on

- 関和彦. "倭王済". 朝日日本歴史人物事典. 朝日新聞出版. Search this book on
- リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
- "倭王済". 日本人名大辞典. 講談社. Search this book on
- その他文献
- 森公章 (2010). 倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像(日本史リブレット 人 002). 山川出版社. ISBN 978-4634548022. Search this book on

- 河内春人 (2018). 倭の五王 -王位継承と五世紀の東アジア-(中公新書2470). 中央公論新社. ISBN 978-4121024701. Search this book on

- 石井正敏 (June 2005). "5世紀の日韓関係 - 倭の五王と高句麗・百済 -" (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期). 日韓歴史共同研究. Archived from the original (PDF) on 2015-10-18.
- 森公章 (2010). 倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像(日本史リブレット 人 002). 山川出版社. ISBN 978-4634548022. Search this book on
See Also
外部リンク
- 漢籍電子文献資料庫 - 台湾中央研究院
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